第一回神保町サロン

第0回サロンに引き続き、

3/25に行われた第1回のサロンのレポートです。


参加者:4名
場所:神保町「さぼうる」・駿河台下「スターバックスコーヒー」・渋谷「麻布茶房」
テーマ:大学教育について

第1回目のサロンは雨の木曜日に開催されました。どの時間も二人で、人とテーマを引き継ぎながら話が展開
されました。
以下、レポートします。





0.高等専門学校について

大学の話を始める前に、高専の話をしたのでこれに触れる。
高専といえばその昔、その高度な専門知識と技術を持っていることで、
製造業をはじめとした企業から引く手あまたであった。
高専生自身も高校大学とはひと味違うというプライドを持っていたものである。

しかし近年では、会社の研究開発などは高専の卒業生はやらせてもらえないという。
会社が必要としている専門性は、大学院に行かないと獲得できない時代なのだそうだ。
高専の先生の話すところによれば、高専は今や高校を5年間行くところになっているとも。
果たして、高専の魅力は何処に行ってしまったのだろうか。

高専を5年間通った卒業後、大学3年に編入できるシステムがある。
すべての大学が門戸を開いているわけではないが、
専門科目、英語、小論文と面接だけで入学できる。
科目が少ないので、受験勉強に貴重な時間をいくらも費やす必要がない。
そのために、高専進学を選択する人もいる。

そのようにして高専から大学に進学すると、確かに高専生は一般の大学生よりは勉強しているが、
大学で積極的に勉強している学生には及ばないという。

高専は5年間同じ環境であり、あまり開かれた環境ではないことや、
大学ほどの多様な講義があるわけではないことがその理由ではないだろうか。
研究の細分化により、専門性は5年間ではとても身につかない。
高専の個性は、とても宙ぶらりんなところでとどまってしまっているのだ。

特に国立の高専などは、最近の開かれた学校の流れにもついていけないという。
独立行政法人が管理していることが腰の重さに関係しているのかどうか。

高専を目指す人は、入学する時からある程度方向性を持った人間でないといけない。
方向性を持って主体的に動ける人間は、
高専の5年間を専門性を深めるために有効に使えるだろうし、
大学編入などの多様な手段もある。

高専自体も、どのような機能を持った学校となるのか。
5年間で専門家や職人を作り出せない高専があるとすれば、
一学校としてどのようなスタンスを取るのか、
何がしかの魅力を打ち出して行く取り組みが必要なのではないだろうか。

その上でサロンでは、附属高から大学の7年間に一貫した専門性を持ったことを学ぶ、
そういう形がこれからは良いのではないだろうか、
ということが言われた。



1.大学とはどのような施設か

さて、大学の話である。
大学を取り巻く環境が日々変化している中で、大学そのものの役割も変化している。
昔の大学といえば、「学問」をするための場所、ということだった。
しかし、近年はだいぶ様相が異なってきている。
果たして大学とは学問だけをするためのところなのだろうか。

大学生は、講義を受ける他にもバイトやサークル活動に積極的に参加する。
近年は奉仕活動や地域活動などを活発にやっている学生も多い。
3年生からは講義そっちのけで就活をする学生ばかりだ。

大学の形態云々ではなく、そのように大学という場は機能している。

そもそも大学は学問をする機関とはいえ、
学部生の間は殆どの大学で学問らしい学問はできない。
慶應のゼミも一部はただのサークルのようなものだし、
勉強している内容も実は教授の教科書を精読した方が
高い知識を身につけられるものだったりするのだ。

学生の本分は勉強で、本来なら就職活動などすべきではないという向きもあるだろう。
地域の老人が憤慨した様子で語っていた事を思い出せば、
その昔は、ゼミや研究室が一人一人の学生に就職先を世話していたそうだ。

その老人は、大学が怠慢で学生に口利きをしないから、
学問が疎かになり就活が厳しくなるといっていたが、
今の時代では無論それは叶わないだろう。

就職が厳しい以上、学問より就活を優先せざるをえない。
大学全入時代に企業へ就職するには多くの人が大学に入らざるをえない。
就職するために大学に入り、就職するために単位を取る。
だから学生の本分は就活たり得るのであり、
実際に現在の多くの人がそうなっているのである。


暴論だが、もし大学が就職のための機関であれば、
今の大学生が行っていることは、就職に成功しさえすれば大抵是認されてしまう。

例えば、テニサーに入り浸ってナンパに旅行と放蕩三昧の生活をしていても、
それが営業の力に結びつくかも知れない。
三日間徹夜して麻雀することも、SEになって激務をこなすための体力作りといえば
屁理屈がついてしまう。

これらは極端な例だが、実際問題として、
社会人のマナーを身につけることが講義の単位になるとか、
ボランティアをすることが単位になるとか、
凡そ大学で行う学問というところから鑑みると
それを大学でやる講義として妥当なのか一考の余地がありそうなものでも、
一部ではたいそう賞賛されているということだ。

某大手新聞でも一面の記事で、
大学は学生に一年生のうちからインターンなどをさせて、
しっかりと職業訓練校となるべきだ、などという論をぶっていた。
論の是非はともかく、現在の大学の学問教育が社会のニーズにマッチしていないことが
端的に現れている事例だ。

会社にしてみれば、人材の選考を自分たちでやらずとも、
大抵二十歳までに2回か3回の受験と就職活動で、十二分にふるい分けがなされるわけである。
さらに今の時代はそこまでふるい分けされた人でも余るというわけである。
故に大学で勉強をするかしないかと、会社のニーズに会う人材かどうかは別問題で、
受験と就活と何かゼミのような活動経験さえあれば、大学などなくてもいいようなものである。
なるほど、就職したい学生は何回もの受験と早くからの就職活動を乗り越えなければ
希望の就職には手が届かないというわけだ。

さて、ここで我々は考える。
果たして大学は単なる職業訓練校としての使命を負うべきなのだろうか。
それとも学問をやる機関に戻るべきなのだろうか。
学生はサークルなどと両立させてバランスよくモラトリアムを楽しむべきなのだろうか。
バイトやインターンで社会経験を積むべきなのだろうか。
4年間という限られた時間で、大学という環境がどのように機能するべきなのか。


サロンの面々はここで、
大学という形態が担っている機能がどうやら多岐にわたっており、
それらが綯い交ぜになって議論されているようだ
ということに気づき始める。

「機能と形態の断絶」と現代を評したベルナール・チュミの言葉は、
建築物以外にも当てはまるのかもしれない。



2.教育の分類と大学の位置づけ

教育と一口にいっても、その内容は色々だ。
大学教育、という大雑把な括りだけで議論を続けると、
出来の悪いピザのように、いろんなものが散らばっているだけのものになってしまう。

そこでサロンでは、宮原誠一の考えなどを参考にしながら、
教育の形を以下の4つに分類した。

○一般的教育
○清身的教育
○職業的教育
○究学的教育


それぞれの定義は以下の通りである。

○一般的教育
いわゆる読み書き算盤といわれるものを指す。
この日本社会に生きていく上で最低限必要な知識を授ける教育のことである。

○清身的教育
哲学や倫理、思想、教養を学ぶものである。
如何に生くべきか、物事をどう考えるかということを考えさせる教育である。

○職業的教育
社会の中で稼ぎ、生きていくための知識や技能を学ぶ教育である。
ちなみに、これのみを指して実学というのは間違いである。
実学とは、「人間普通日用に近い」学問であるからして、
ここでいう一般的、職業的、究学的学問を全て含めた学問を指している。

○究学的教育
専門的研究などがこれにあたる。

さて、まずは以上のように4つの大枠を設けた。
凡その教育の場はこれらのいずれかの性格を持っていることは、
ほぼ間違いのないところであろう。

 

現在の既存の大学や教育機関等を、これら4つの軸に分類してみるとどうなるだろうか。

○一般的教育
小学校~高校が読み書き算盤を教える場としてまずある。
高校を入れるかどうかは議論の余地がありそうだが、
高校はあくまで後期中等学校である上、
現状では中学までの範囲をできない生徒を高校がフォローする形になっているため、
含めることが妥当ではないだろうか。

英検・漢検なども、読み書きの基本的技能を定着させる機会として入れるべきであろう。
現在語学といわれているものの多くは、究学的・職業的なものではなく、
一般的教育の範疇に入るものと考えられる。

○清身的教育
ICUや学習院、聖心や白百合などの名門女子校などは、これに当て嵌るだろう。
高校の部活動や都立高の奉仕の時間も清身的教育を行う機会を与えている。
宗教系学校や宗教自体も、清身的教育を行う機関であろう。
また、ボランティアを行う団体や、社会活動をするNPOに若者が入れば、
それも清身的教育の機会になるかも知れない。

しかし、実際のところはしっかりと清身的教育を行う機会が設けられているかというと、
そうではないかもしれない。
清身的教育を担っているのは、根本的には個人を取り巻く社会、コミュニティである。
その社会がどのような道義のもとに廻っているのかを考え、議論することから
思想や価値観が醸成されていくものである。

現代ではその道義の軸が曖昧になっている上、若者があまり議論しなくなっている。
普通のミーティングですらP2Pを使った文字と音声のやりとりだけで
済ませようとしているぐらいである。
昔のように、哲学書を読みあさることがかっこいいという風潮もない。
イデオロギーが対立するのではなく、散逸、もしくは霧散する時代なのだ。
若者を糾弾するわけではなく、清身的教育の機会が少ないということが言いたいのである。

学生闘争の時代であれば、大声で議論を交わし、
自分の生き方、社会のあり方を考え、何々論にかぶれていることがかっこよさであった。
江戸時代まで遡れば、寺子屋で論語などを用い、
一般的教育と並行して清身的教育が行われていたのだ。
現代に、それに代わる場があるだろうか。

そういった意味では、手前味噌で恐縮だが、
この神保町サロンなどは、清身的教育の機会として大変よい場であると言えるだろう。

○職業的教育
明治、中央大学などがとても力を入ている。慶應のSFCなどもこれに当て嵌るだろう。
マーケティング戦略や起業論など内実は職業的教育であるものも多い。
また、資格スクールや会計大学院、法科大学院がこれに当て嵌る。
OJT(On-the-Job Training)は正しく職業的教育と言えるだろう。
(ビジネス)英会話スクールなどもこれに合致するかも知れない。

専門学校も職業的教育機関であるといいたいところではあるが、
知人に聞くところによれば、就職がないので専門学校で学んだこととは
関係ないところに就職する学生ばかりだという。
これではなんのための専門学校かわからない。

とはいえ、学校医教育法でいう各種学校のようなところは多くが
職業的教育の場であるだろう。

余談ながら、立教大学の観光学部は、
もともと広い視野から究学的に観光を研究する目的で作られたが、
近年ではかなり職業的教育の色が濃くなっているという。

さらに、前述した昔の高専も、間違いなく職業的教育機関であったであろう。

また、サロンのメンバーの中には、バイトで職業的教育の機会を十二分に享受し、
大学2年生にして既に内定を取り、大学は道楽で行っているというような者もいる。
この場合はアルバイト先が自然な職業的教育機関であったといえる。

昔の丁稚奉公なども、職業的教育を小さい頃から叩き込むシステムだったのである。

そもそもローマ時代に生まれた大学には、
弁護士や政治家になるための法学、
医者になるための医学、
牧師や先生になるための神学、
この3つの職業的教育しか提供されていなかったのである。

○究学的教育
旧帝大、早慶の3年以降や、多くの専門的な大学院、研究所、シンクタンクなどが当て嵌る。
他に究学的教育を受けられる場はあまり想像がつかない。

さて、ここまで少し退屈な分類作業を行ってきた。
これからはまた本論に戻り、大学教育について考えてみよう。



3.大学における職業的側面と究学的側面の対立

端的に言い切ってしまおう。今、社会が必要としているのは職業的教育機関だ。

なぜ昔は研究会や高専から就職先の口利きができて、現在はできないのか。
先程OJTという言葉が出てきたが、
仕事の細分化と専門性の高まりによって、やや専門的で埃を被ったような座学の必要性が、
ここに来てぐんと低くなったからだ。
それよりも特殊でハードな業務をこなせる体力と忍耐力を持った体育会の人間や、
プログラミングやデザインなどの高度な技術を持った人間や、
サークルなどで高い社交性と協調性と行動力を身につけた人間が重宝されるようになったのだ。

なるほど、そんなことは昔から当たり前だと思われるかも知れない。
しかし、今は人材が余っているのだ。
今までと同じぐらい素晴らしい人間で、成績にAが並んでいるだけではもはや就職できない。
座学などやっていないで、就職に必要な高度な技術や専門性を持ちたいと
学生が思ったとしても至って自然なことだ。
そしてその彼らが、やや難解で実用に足らず、埃を被った講義に背を向け、
職業的教育を求めインターンやサークルに勤しむのは自然なことである。

皆、われ先にとダブルスクール(大学と資格学校の掛け持ち)をやったり、
インターンやサークルやNPOスタッフなどで何か社会経験を積もうとする。
学生たちは職業的教育に飢えているのだ。

さて他方、究学的教育を受けたい大学生にとっては、これほど迷惑な話もない。
学部生の時に自分が学びたい授業を取っても、
その授業を受けている他の学生は勉強する気がさらさらない連中である。
畢竟、教授はある程度授業の質を落とすことになる。
究学的教育を求める学生にとっては物足りないことこの上ない。
それだのに職業的教育を求める学生は、その程度の講義も難しいという。

大学の学部というのは、職業的教育を受けるにも、究学的教育を受けるにも
十分でないシステムになってしまっている。帯に短し襷に長しという奴だ。

これについて先述の宮原誠一は、
大学における職業的側面と究学的側面を分けるべきだと論じているそうだ。

諸外国に目を向ければ、例えばドイツの学校制度では、
職人になるか大学に行くかが早期から明確に分かれるシステムになっている。
職人コースの進路では中小企業が多いが、
企業と学校が協働で教育を行う形で、職業訓練と理論教育が並行して進められるので、
高い技能を持った学生が社会に輩出される。
また、大卒者の就職では大学名ではなく、卒業研究で何を学んだかが重視される。
大企業に就職しようと思って大学に行ったものは、
大学で何を学ぶかを明確にし究学に努めなければ就職はできない。
大学生の本分が学問であることは、ドイツでは正しいのだ。

またフィンランドでは、高校から単位制の教育が取り入れられている。
大学の入学のための試験は論述式で、大学に入るためには何を学びたく、
何を今まで学んできたのかをしっかりと見つめる必要がある。
その分、大学は究学的機関として確立されており、
その門戸も広い世代や階層に開かれている。

それに比して日本の大学というのは、
学生の殆どは究学の精神を持たず、
職業的知能や技能も身につくわけではなく、
なかなか不合理なシステムになってしまっているのではないか。
頭でっかちで中途半端な人間ほど使いにくいものはないが、
今の大学はそのような人間ばかり輩出する形態になっていやしないだろうか。

会社は不況で人が余っているので、学歴の高いところからチョイスすれば十分である。
学生は少子化で競争率が下がったので、誰でもいい大学を目指せる。
これらの現象をこのように、この20年間の不況と少子化の結果であると、
結論付けるのはなるほど簡単だ。

であるからには、この現状に応じた対応策を考えねばなるまい。



4.理想の教育システムと(究学的)専門大学と(職業的)実業大学

先程の分類を元に、理想的な教育体系を、
現在の6・3・3・4を壊さない形で検討してみた。

まず小学校では、最初の5年間で3R(Reading, wRiting, aRithetic)、
すなわち読み書き算盤と、生活の基本をマスターする。
小学校6年生の時点から、中学1年の内容を始める。
小6+中学3年間では、現在の中学の内容とその復習、
現在の高校で行われている授業の中でも必要で基礎的な
一般的教育の範疇の教育を行う。

そのためには少人数制を採用し、
落ちこぼれても現在の中学の内容までは完璧にし、
進む人は高校の内容をかなり理解できるようにするべきだ。

理解のためには、
やる→わかる→できる→やる……
のサイクルをきちんと回すことが必要である。

昔は、とにかく公式を与えて問題を沢山やるに始まり、
問題を解くとなんとなくできる、その後わかる、
そして次の段階をやる、というサイクルが回っていた。

しかし最近は、わかる→できる→わかる……でサイクルを回そうとしているので、
実際に理解と応用が進まない。やる経験がないので身につかないのだ。
わかる、の後にやる、がないとサイクルが回らないので、
親は皆塾に通わせてやらせようとする。これでは何時まで経っても公立校の面目が無い。

また、わかる→やる→できる→わかる……のサイクルの真ん中に、
考えるという垂直方向のベクトルがあると、螺旋が上り螺旋となり、
前向きな教育につながる。

さて、中学を卒業した後、高校3年間では、
理系文系関わらず人文・社会・政経を中心に清身的教育を行い、
都立高の奉仕の時間のような何らかの形で社会経験を積ませることで、
生き方や価値観についてよく考えさせる。
基本的には高校時代に自らの人生を如何に往くべきかを考える癖をつけさせる。

高校入学までに志を持って進学する者は高専を選べばよいし、
特に理系の高専については、高校からの編入を積極的に受け入れてはどうか。
高校で自分の生き方を考えた生徒が、やっぱりものづくりをしたいと高専に来る、
などということが増えるかも知れない。

大学は、職業的教育を受けるための実業大学と、究学的な事をする専門大学に分ける。
実業大学では、1年生からインターンや社会活動などをしたい人に、
チャンスや単位を惜しみなく与えるようにすれば良い。
社会人に必要なマナー講座や教養講座に単位を多く割り振っても、
職業的教育をするところであると思えば自然なことだ。
もちろん今までの一般教養科目はあって良いが、
前述のように高校時代にやりたい事を見つけていることが前提になっているので、
学生が目的意識を持って受ける、かなり有意義な授業となるだろう。

企業も実業大学と組んで、専門的なノウハウや技術を学生のうちから身に付けられるよう、
サポートしていけばいい。連続した講義として設けるのもよいだろう。
あらゆる企業が大学教育に参画すれば、
それぞれが持っている細分化された専門性が講義として次世代育成に直結する。
細分化で競争率は下がるが、専門性は上がるのだ。

高校の進路指導も変わるだろう。実業大学を目指す生徒は将来何をやりたいかをベースに、
その活動をする企業の専門的な講義が取れる大学はどこか、と考えるようになる。
学生各々がやりたい事を、企業のニーズに沿いながら高い専門性で学ぶことができるのだ。
もちろん、繰り返すようだが、学生各々が実業大学に入る前にやりたい事を明確にできるよう、
高校時代にはしっかりとした清身的教育が必要である。


他方、専門大学では本当に究学的なことをしたい学生が集まる。
そうなれば今の学部の勉強の質が上がるので、入学試験の難易度が上がるだろう。
究学したい科目の専門的なことが問われる試験となる。
結果的に全体的なレベルの底上げにつながるだろう。
大学3年生ぐらいから今の大学院程度のレベルのことができるようになる。


実業大学には企業がOJTの一環と考えて投資し、経営を助ける。
そうすれば、国からの助成は専門大学に重点をおいていけば良いので、
科学技術立国日本の、国力の増強に直結するだろう。


この教育システムでは、エリート教育の問題も直ちに解決できる。
エリート教育に関しては、東大教育学部などは容認派、筑波大などは否定的な認識を持っており、
教育の公平性との兼ね合いが難しい。
しかし、このシステムなら高校時代にある程度の教育のゆとりがあり、
その間に高専などでエリート教育を行えば良い。
高校時代に清身的教育を受け、自らのミッションを見出して生きる生徒を高専で拾い、
清身的教育と並行して職業的、究学的なエリート教育を施す。
そのまま専門大学なり実業大学なりの専門が合致したところにトスしてやれば、
素晴らしい未来への先駆者たるエリートを生み出すことができるだろう。
普通の子供達と何ら違うことない環境の中にありながら、
のびしろを最大限活かせる教育を受けられるので、教育の公平性も損なわない。

現状の問題点、例えば地方にある受動的教育を与えるだけの高校をどうするか、
受験のシステムをどうするか、などという議論からはもはや何も生まれないだろう。

神保町サロンのような、未来のビジョンを放言できる場があまりに少ないのではないのだろうか。



5.最後に
結局、このようにしたいのである。
すなわち、何が欲しくて何がしたいか。
それを明確に見極めながら進んでいける社会でなければいけないということだ。

そして、それを子供たちが明確にするためには、
清身的教育を行う場をきちんと設けることだ。
学校と社会の多様な接点を増やすことと、
子供たちに考えさせること、それだけで実現できるし、現在実現しつつある場もある。

好きと仕事は違う、というところから、好きなことを仕事に、
というモチベーションにつなげようとするのと同じく、
好きと学問は違う、というところから、好きなことを学べる教育のシステムにしなければならない。
一般的教育さえ終われば、あとの学びは主体的に獲得していくべきであろう。


また、学校の立ち位置については、

<社会>
↓ニーズ
[学校]
↑ウォンツ
<子供>

このように、社会のニーズを汲み取りながら、
子供たちのウォンツをそれに結びつける場でなければいけない。
社会にも学生にも相手にされない大学などなんの意味があろうか。


我々神保町サロンにいる学生に立ち返って考えてみれば、
それぞれが現在の教育システムの中で、
自分のしたいことを見つけ、それを主体的に学んでいる。
それが可能なのは、それぞれが世界屈指の大変恵まれた環境にいるからである。

そうでない学生も、誰もが主体的に学びを獲得し、
充実した学びと職業を手にできる社会にするための方策を今回は考えた。

以上、第1回の神保町サロンレポートである。

 


はい、こんな感じです。今回は分量が多いですね。
ICレコーダー欲しいなぁと思いましたが、紙に殴り書いていくのもまとめやすくていいですね。

是非次回以降も充実した交流ができればと思います。

また、参加された方は一言でもいただけると、ここの内容が充実してありがたいです。

 

それでは。