第二回神保町サロン

3/28に行われた第2回のサロンのレポートです。

参加者:5名
場所:神保町「日比谷Bar」・神保町「カフェテラス古瀬戸」
テーマ:大学教育について
※今回のサロンは前回3/26の内容を一部引き継いで行われています。

日曜日で大学が休みなのでカフェも軒並み休業日で、開いているカフェを探すのに一苦労でした。

以下、レポートします。

 

 

 

 

0.A君メモ

イントロダクションに代えて、前回のレポートを読んだA君が考えて綴ったことを簡単に書く。
それは次の2点である。
?.勉強とは何か。
勉強とは人生に於いて学びを行うことの全てである。
授業でやったこと、書物から学ぶことのみが勉強ではなく、経験や体験から勉強することもできる。
?.人生に於ける被教育機会6段階
~中学卒業(15歳)まで:受動的な被(一般的)教育
高校(16)~就職(20前後):目的を持った被(職業的・究学的)教育
就職~10年目(30前後):OJTなど被(職業的)教育、働く中で生き方を考える被(清身的)教育
10~25年目:働く中での被(職業的)教育、生き方を考える被(清身的)教育
25~45年目:管理労働者としての被(職業的・究学的)教育
退職後~:趣味や関心に興じる被(清身的・究学的)教育



1.高校3年間で何を学ぶか

上記のA君メモにせよ、前回の理想的教育システム論(第一回レポート4節)にせよ、
現在において被教育者の人生の重要なポイントとなり、
日本のこれからの教育のキーとなるところは、高校教育である。

つまりは、こういう事だ。
主体的に自分の興味関心を深めていける高校教育があり、
そしてそれをベースに大学進学を行うこと、それが目指す理想像なのである。

高校時代に何を教育され、何を学ぶべきか。
高校時代に「主体的に学ぶこと」を学ぶにはどうしたらよいか。
まずはサロンのメンバーにいるメンバーで、自らの高校時代を振り返ってみた。

埼玉県内髄一の進学校の進学コース出身者で受験を経験した者は、
高校は受験勉強一色だった記憶しかないという。
一般的な高校では1~6,7限までしかないが、そのクラスは0~9限まであったといい、
下校時間のギリギリまで高校で授業があったそうだ。
人によってはその後に予備校にいくというのだから、本当に余裕がない。
授業の内容も受験のために確立されたカリキュラムを与えられ、
科目選択の幅は殆どないというほどの状況だったという。
また、世界史の先生が理系出身者だったため、世界史の時間に科学史という名目で、
実質的には化学の授業ではないか、というようなこともあったそうだ。
世間で世界史や情報の授業の未履修が問題になる少し前の話である。

もちろん得る知識は大量にあったが、目的意識がなくカリキュラムをこなすだけの生徒や、
詰め込みの教育が性に合わない生徒は、成績の伸び悩みが見られたという。
上手くそのシステムを活用して受験教育を受けた者でも、
その期間で他に何ができたかを振り返れば、
受験教育の幅の狭さに疑問を呈さざるを得ないという。
教えている先生も大変で、なかなか長く続けられる人は少ないという。

さらに、志望する大学の決め方にも問題がある。
もちろん大学を目指すきっかけはそれぞれだろうが、
高校生に開かれた大学の情報というのはあまりにも少なく、
学びたいことをするために大学を選ぶという状況ではないという。
また、国内にこれだけ沢山ある大学の個々の専門性のレベルにも疑問を差し挟む余地がある。
何か専門性のあることをやろうと志せば、結局のところ大抵の学問について
旧帝大を始めとした有名大学でなければ専門的な勉強ができない場合が
少なからずあるというのだ。
というのも、少子化の時代を迎えて大学の倍率はどんどん落ちている。
東大をはじめ大学合格点の敷居がどんどん下がっており、
それと共に合格者のレベルが下がっているのは想像に難くない。
不況で地元志向が高まり、名門大の吸引力も落ちつつある。
そうすると、それぞれの大学が同じような学生を抱えることになる。
大学で専門的な教育が上手くいかないのは前回のレポートで説明したとおりである。
ともあれ、大学の専門性がブランドの売りにならない時点でどこか歪んでいるのだろう。

他方、附属高出身者が多い神保町サロンでもあるので、
附属高校に於ける高校時代の振り返りはどのようなものであったか。
附属高では受けられる教育の幅がかなり広く、
また時間に余裕があるので自分のしたい勉強ができる。
例えばある高校では、20以上の語学、図書館学や博物館学、
古典研究から超ひも理論までもを高校時代に学ぶことができる。
高校時代から、大学の特定の専門分野の基礎知識の教育を受けることもできる。
先生が高校で研究を続けている場合もある。

サロン参加者の出身附属高が何れも放任主義的な学校であり、
故に主体的な教育の受け方を知っていると言える。
すなわち、以下のようなことである。
附属高生は受験などの目標がないので、勉強することを強制されない。
勉強することを特には強いられない教育環境の中で勉強をするということは、
自分の中で勉強することのモチベーションを見出さなければいけない。
故に主体的に学びの意義を見出す癖がつくのである。

実際の例として、こんなことがある。
某附属高校出身の学生は真面目だと言われるのだが、
実際はあまりそんなことはないと当人たちは思っている。
しかし、エグいレポートなどが課せられた時に、
他の学生達は何とかして適当に済ませてしまおうとするのに対し、
某附属校出身の学生たちはしっかりとそれに取り組む。
何故かと言えば、エグいレポートが出ても、
その課題の中に主体的に学びを見出す癖が発揮されるので、
積極的に取り組むからなのである。

先程、「附属高生は受験などの目標がないので、勉強することを強制されない」と書いた。
これは諸刃の剣である。もうお察しのことかも知れない。
主体的に学ぼうという姿勢を持つ生徒はよいが、
問題はそうでない生徒もいるということである。
附属高で主体的に学ぼうとしなければ、勉強することを強制されないので怠ける。
ギリギリの成績で卒業して、無目的に大学に入ってしまう附属生も少なくない。
それで大学に入ってから、附属生は馬鹿呼ばわりされる事態になってしまうのだ。
一部では真面目と評され、一部では馬鹿呼ばわりと、附属生の二分化も顕著だ。

至れり尽くせりのカリキュラムをこなすだけの、進学校の教育。
自由放任の中でややもすれば学ぶことを忘れてしまう、附属校の教育。
あるべき高校教育の姿は、何処にあるのだろうか。



2.総論を知り、各論を志せる高校教育

さて、大学進学に向けて主体的な学びを獲得するためには、どうしたらよいだろうか。

先程の進学高校と附属高校、そして前回の高専という各種の高校の、
それぞれの強みStrengthの中に、見えてくるものがある。

進学校の強みは、特定の教科の知識を受験という名目でどんどん詰め込むことである。
受験に特化したカリキュラムが用意され、迷うことなく授業を真面目に受ければ
生徒はどんどん頭が良くなる。受験勉強に対する専門性を身につけた、
受験のスペシャリストになるのだ。

附属校は、広くあらゆる教科を選択でき、主体的に学ぶことができることが強みだ。
また、大学の専門的分野の導入も受けることができる。
広く主体的な学びを知りながら、自分の関心事が教科の中に見つかれば
そこから学びを深めていくいことができるのである。

高専はなんといっても専門性が強みだ。
16歳から専門的な分野を深めていくいことができ、
その分野のエキスパートを目指すことができる。
目的意識が合致すれば、スペシャリストになるのにこれほどいい環境はない。

ここで見えてくるものはなんだろうか。それは二つある。

一つは、学問体系を学ばないということである。
よく見ると、どの高校でも用意されているのは学問の一部を切り取った教科である。
読み書き算盤の延長にある教科ばかりなのだから、当たり前といえばそうだ。
しかし、主体的な学びを獲得するためには、
自分の関心事がどの学問に結びつているのか分からなければならない。
それが運良く高校の数学や社会などの教科に結びついていればよいが、
この多様化の時代では、なかなかそうも行かない。
自分の関心事がどの学問に結びついていて、
それにたどり着くためにはどの教科を受ければいいのかということを
生徒が主体的に見極めるために、学問体系を教えることが実は不可欠なのだ。

もう一つは、一般的な教科と専門的分野の学問への橋渡しがないことだ。
ツールとして学んだことと、ツールを必要とする学問の間の橋渡しがないので、
高校教育が無目的化し、大学教育が低レベルなものになってしまうのである。
中学までやってきた一般的教育(読み書き算盤)は、学問のためのいわばツールである。
現在の高校では、そのツールの延長線上の事をやっている。
例えば数学なら、多項方程式や多様な関数など。
読み書き算盤のレベルであれば日常で使うため、
ツールとして学ぶことに異議は差し挟まれないだろう。
しかし、高度なツールを学問の中でどう使うかが分からないまま、
高校の授業が進んでいくと、無目的な勉強になってしまうのは明白である。
(だからこそ受験を目的化している側面もあるかも知れないが)
他方、大学に入って学問をやり始めると、
今度は必要なツールが身についていないのでたいそう苦労することになる。
そもそも無目的に大学に入った人は、ツールを身につけるのではなく、
自ら探求しなければならないので途方にくれる。
そこで彼はこう呟くのだ。「大学の勉強がなんの役に立つっていうんだ……」
しかし彼にとって残念なことに、学問はツールを身につける手段ではない。

これらを解決するには、
学問体系を知る→関心事と学問を結びつける→必要な科目を勉強する
というプロセスを経ることができれば良い。

つまりまとめると、こういう高校教育が理想である。
まず一般的教育が終わった中学卒業か高校入学の時点で、学問体系を教える。
すなわち、どの学問でどのようなことが究められていて、
それぞれがどのように連関しているのかを教えるのだ。
次に、生徒は色々な分野の中で自分の関心事を探しながら、学問に結びつけていく。
最後に、生徒がこの先大学で学んでいく分野を決めた時点から、
その専門分野の基礎的知識を教えていく。
例えば経済なら政経、微積分など。商学なら政経に現社など。
理工なら物理化学、医学なら生物や倫理の科目が有益だろう。
そのようにすれば、目的意識を持って勉強することができる。
高校で大学の専門科目の基礎知識を叩き込めば、
自ずと受験にしろ大学にしろ質の向上につながるだろう。
スペシャリストばかりを輩出してジェネラリストが減ると憂う必要はない。
ジェネラリストにおけるスペシャリストを求める学問もあるのだから。

また、各種の高校は、どの時点から生徒が専門分野に入るかによって、
その機能や特色を活かしながら棲み分けが出来るだろう。
すなわち以下のようにすればよい。

高校 高専 附属 普通高
1年┳┬  ┬  ┬
  ┃│専 │多 │多
  ┃│門 │分 │分
  ┃│的 │野 │野
2年╋│教 │概 │概
  ┃│育 │論 │論
  ┃│  ┼  │
  ┃│  │専 │
3年╋│  │門 │
  ┃│  │的 ┼
  ┃│  │教 │専門的
  ↓↓  ↓育 ↓教育
大学 ←────────→
など 専門的    総合的


上記の図のように、早い段階から自分の専門を定めている人は高専に入ればよい。
また、考える人は高校生の間目一杯悩めば良い。
ただし、図の下にあるように、早い内から専門を定めている人ほど専門的内容、
遅くまで悩む人ほど総合的内容の学問に進むことがよいのは明白なことである。
左に行くほどスペシャリスト、右に行くほどジェネラリストの道に進むことになる。

学問の専門性が細分化すれば、受験戦争も勢いを減ずるので、今のように無目的に
ガツガツやるようなことはなくなるだろう。
そのかわり、専門と決めたことに関してはよりしっかり取り組むことで、
よりよい大学で専門性がを深めることができるようになるということである。

大学のビジネスと言う意味でも、
今までは卒業生の実績や就職率、資格などで差別化を図っていたのが、
こうなれば学問の専門性で競う事になる。
伝統ある大学は伝統的な学問を売りにするだろうし、
新興大学は細分化されたニッチな学問をしっかり網羅することになるだろう。
そして生徒が魅力を感じる学問をもった大学を目指せば良い。
もちろん、それは大学側も積極的に高校に向けて
自分たちがやっていることをアピールするようになるだろうし、
高校生もそれを知ろうとするだろう。



3.学問の分類とここまでのまとめ

学問の分類がどのようなツリーになっているかについても議論に上がった。
まだ結論はみていない。
曰く、以下のようなものが一例である。

学問と価値
  ┌哲学
学問┤  ┌応用科学┬実践
  │  │   &bsp;└政策 <価値を扱う>
━━┿━━┿━━━━━━━━━━━━━━━━━
  └科学┼経験科学┬人文 <価値を扱わない>
    &bsp;│    ├社会
     │    └自然
     └先験科学

方法と領域
方法│経済、社会、歴史等←〇〇学的方法を使う学問
──┼─────────────────────
領域│商学、経営、教育等←領域だけ


コンピュータやロボットの登場で、文系と理系の敷居が
かなり低くなっているという話もあった。

また、前回の実業大学と専門大学についてだが、
大学院は法律上もうそのようになっているのだそうだ。

大学院研究科:修士 ←専門(究学的)
ex)経済研究科、数学研究科など
専門職大学院:専門士←実業(職業的)
ex)ロースクール、アカウンティングスクールなど


浪人生時代は好きな勉強ができてよかったと、
先述の進学校出身者は語る。
高校で自由に振舞っている一癖ある奴が、
大学入ってから大きく開花する。

主体的に、目的意識を持って勉強することが、
一番大事なことであるということだ。

受験システムを何か神格化し、
受験様にわが子を捧げ、
受験様がわが子を救うのか救わないのか教えたもうと、
高校の教師に縋り泣く親が、本当にこの世にいるという。
信じられないことだ。

そんな馬鹿げたことを終わりにし、
教育を受ける子ども自身がどのようにすれば主体性を獲得し、
目的意識を持って勉強できるのか。
ここまではそれを実現するための方策と意図を、
ある程度明確にできたといえよう。



4.専門学校と芸術について

最近、専門学校を卒業してもその専門を活かす職に就けないので、
折角専門で学んだことが社会に出てほとんど活かせないということがあるそうだ。
そもそも不況の折で、音楽や絵画などに向く資本が少なく、
芸術の仕事で食っていける人はごく一部だという。
それでも昔は結構いたのだが、今では食っていけないレベルが
本当にヤバいほど食っていけないので、芸術職などは就けないという。
また、そのようにして文化が衰退している中なので、
少し秀でている人がいると、あまり上手くなくても持ち上げられてしまう。
そのことによって本人が満足してしまい、
それ以上のレベル向上が成しえない場合も多々あるそうだ。
現代社会の功罪というか、即物的な結果を周囲が求めるあまり、
時間をかけて芸術を磨くプロセスが取れないのだそうだ。

また、マスメディアは近年、芸術を芸術として評価せず、
その周辺の物語をいかにもに仕立て上げ見せることで、
芸術そのものの価値を翳ませてしまっている。

日本が大切に育ててきた文化や芸術は、今後どうなっていくのだろうか。



5.勉強をしない大学生

昔の大学生は云々。今の大学生は云々。延々繰り返されてきた議論だ。
しかし、本当に今の大学生が、特に勉強をしていないとすれば。
以下は思想哲学研究会の会合のメモを踏まえて、サロンで議論されたことである。

ラカンの考えを借りれば、人間とは常に欲望を持って生きる生き物である。
言葉を持ち、見聞きしたものを分類し、自分とは違うものであると定義づけた以上、
それら全てを支配できないことは明確である。
しかし人間は全能でありたいと願う。ゆえに人が欲望を手放すことは無いのだ。

さて、人は言葉でいろいろなものを定義している。自己も然り。
自分は誰それである。自分は何処どこに所属している。
自分は何時いつに締め切りの仕事がある。などなど。
その言葉で形成されている世界をラカンの言葉で象徴的世界というのだが、
それが自分自身を縛っている場合が多々ある。
あなたも心当たりがあるのではないだろうか。
物事が定義されると、それ以外の想像力が奪われてしまうので、
非常に息苦しくなるのだ。

情報化の社会になり、あらゆること、複雑なことや分からないことが、
言葉によって定義づけされるようになった。
今までならなんとなくやり過ごせたことが、
言葉という石となって次から次へと胃の中に詰め込まれていくのだ。
それが現在の文字による情報化社会である。

デカルトは「困難は分割せよ」と言ったそうだが、
自分ではコントロールできない石をどんどん胃の中に詰め込まれていく、
それは不満と欲望が無尽蔵にたまっていく状況だ。
石を分割して取り出してくれる医者はほとんどの人にとっていないだろう。
その定義付けられた石を絶対のものだと思わずにやり過ごせればいいのだが、
それができないと不平不満からくる欲望はたまっていくばかりだ。
昔であればそこまで情報が多くなかったので、不平不満はたまらなかった。
情報が無いことに欲望を抱くことも無い。
それがたまったとしても特に逃げ場も無かったので、それはそれとしてあっちへやり、
自分の道を進むことができた。
しかし現在、あまりに多くの情報が襲ってきている。大学生もそこから免れない。
しかも、逃げ場がある。自分が全能感を味わうことができる逃げ場だ。
仮想現実で行われるゲームである。

たいていの人は、あまり欲望をためても吐き出す先が無いので、
そこまで欲望を溜め込まない。
しかし、ゲームは欲望を満たしてくれる。全能感を与えてくれるのだ。
そうすると更に欲望を持つ。前述したように人間は欲望を持つ生き物だからだ。
そうするとどんどん欲望が肥大化して、ゲームから離れられなくなるのだ。
その欲望は、全能感を満たすこととリンクして肥大化しているので、
そこまで全能感が満たされていない一般人よりはるかに大きな欲望となる。
それが何かの拍子に他の方向に向けば
他が追随できないほどの非常に大きなパワーとなるが、
他の方向に向かないうちはどんどんゲームの世界に没頭してしまうのだ。

本や映画、テレビまではまだよかった。主人公に自分を投影して、
自己の欲望を満たしたとしても、それはその物語が終わるまでの話だ。
しかし、ゲームは終わらない物語である。
しかも、得ることができる全能感が桁違いだ。
今の学生は、ゲームで欲望を満たしているうちは、
あまりに非生産的であるといえるだろう。
昔の学生と比べても、である。

言葉が物事を狭めていく事例は、某巨大掲示板でも見られる。
某巨大掲示板で「リア充」という言葉が生まれたときは、
部屋に引きこもっている人に対して部屋を一歩でも出れるなら、
そこに広がっている社会と接点を持っているのだから「リア充」、
すなわちリアルが充実している人である、といっていたのだ。
それが多様な社会で広まるにつれ、色んな枠組みが与えられる。
社交的であること、趣味があること、彼女がいることなど……
なぜそれらの枠組みができたのだろうか。

リア充、という言葉が使われるときは、大抵「自分はリア充ではない」
というように否定の語に使われる。
自分をリア充ではないという枠の中に閉じ込めて、
リア充を妬みの対象に論うために使われるのである。
もともと自虐的な言葉だったのが、
リアルを充実させたいという欲望を持った人間たちが使うようになってから、
自分達の欲望の対象をリア充に当てはめていったのである。
すなわち今や一般人がリア充という言葉を使うときには、
自分が持っていないものはリア充の持っているものです、
というアピールに使われている。
リア充の定義を細かくしていくことはすなわち、
自分は何々ではない、と自分を否定する要素を丹念に拾っていく作業なのである。

最近のVIPは神々の遊びが感じられないという意見も出たが、
それは君子は和して同せず、小人は同じて和せずということではないだろうか。
低年齢化が進んでいるのであるから自然なことだろう。



6.学生ひいては国民の意識低下について

日本人の意識の低さが諸外国から言われている。
国中に蔓延するあきらめ、冒険をしないムード。
皆が裕福になって怠けるようになったからそうなった、
などということではないだろう。

これは、ある種の「刷り込み」が行われているためであるというのが見解だ。
自虐史観からくる自国否定や、マスメディアによって連日報道される負の情報。
日本の国としてのブランドやアイデンティティを、
常に否定されながら生きているということが、
国民のモチベーション、意識の低下を招いているようだ。
実際、自分はだめだと思っているとやはりだめになってしまうように、
日本はだめだと飽くことなくマスコミや一部の教育者が言い続けてきたことで、
ゆとり世代にはびこる厭世観、ついには悟り世代が登場する始末である。

しかし、この刷り込みというのはなかなか気づくことができない。
戦時の天皇絶対主義も、小さいころにそれを刷り込まれたうちのじいさんは、
子供のころは天皇のために死ぬことに何も疑問を持っていなかったという。
戦争が終わって初めて、マスメディアや国がそういうことを煽っていたことが
市井の人々にも分かるように明るみに出たのだという。

人は否定され続け、貶められ続けるとあさましくなる。
今の日本人は昔と比べて品性が失われているとも言われる。
これから新しい方向性を見出して進んでいかないことには、
何時までたっても日出づる国に戻ることはできないだろう。

ゆとりだなんだと貶められ続けてきた学生も、
これからは既存のシステムを変えながら
前に進んでいけるという確信を持って、
自分の道を切り開き、明るい気持ちで進んでいくべきだろう。
それを引き止めるような大人の言葉に耳を貸す必要など無い。
目的意識をもって、主体的に人生を歩んでいく。

考えてみれば、神保町サロンに集う連中は、
誰もかもそのように目的を持って進んでいる人間である。
だからこそ、前向きに議論が進んでいくのだろう。
次回以降のサロンも、楽しいものにしたい。

以上、第二回の神保町サロンレポートである。



はい、なるほどね。やっぱり長いなぁ。
今回は議論が散逸したわりにはまとめやすかったような。

是非次回以降も充実した交流ができればと思います。

また、参加された方は一言でもいただけると、ここの内容が充実してありがたいです。


それでは。